それは、テレビ前での雑談では??

社会

Twitter、Instagram、Facebookなど、テキストや写真中心のメディアから、TikTokやYouTubeなど動画が主なメディアまで様々なSNSが存在する

SNSとは元々はウェブ上で擬似的な社会ネットワークを形成できるサービスのことを指すはず

Facebookなどは分かりやすくて、原則実名利用ということが謳われている(はず)で、物理的距離を感じさせないコミュニケーションツールとしてはメールよりも気軽で、また方法によってはそのやりとりを公の状態でする事で、別の人を巻き込む事もできメールよりも便利だったり、多機能だったりする

差し詰め、自分を中心に聞こえる範囲で知人・友人が雑談などをしているかのようだ、そのまま傍観者でも良いし、会話に混ざっても良い

SNSも変容してきてるよね

従来は前者のように、テキストや写真ぐらいの手軽なアイテムで投稿できて、レスポンスも同様に気軽にできる双方向のやりとりが分かりやすい物をSNSと言っていたように思う

動画は他者に見てもらうまでの手数がテキストや写真と比較すると圧倒的に多く、発信者と視聴者の線引きがある程度明確になる感じがある

なので、従来YouTubeなどはSNSには含まない感じだったが、最近ではPCに限らずスマホでも動画編集ができたりと、撮影も含めて気軽になって来た事と、YouTuberなんかが市民権を得て来ていたりする事で、ただ閲覧者として利用するだけじゃなくて、動画を投稿する側になる者も増えて、そこにコミュニケーションが発生するという事で、SNSに含まれることが増えて来た・・・んだと思う

知りたかった事は必要な事だった?

この従来のYouTubeの雰囲気よりももっと発信側と視聴側がはっきり分かれるメディアというと、テレビだったりラジオだったりの一方通行型、或いは従来型と言えるメディア

一般的にそういうメディアしかなかった時というのは、発信された内容などの評価は、視聴率や聴取率などのある程度のユーザーに協力してもらう形で取れるデータや、アンケートなど別の手段で回収できるデータを集計したりしていたと思う

まぁ今でもそれはある程度影響のあるデータなのかも知れないが、テレビの前で家族が笑ったり泣いたり揶揄している事は『率』の中に丸められている

統計的な数字としてはそれで大丈夫なんだろうけど、例えば、集計的に『10%の人が評価しない』という結果が出た場合、話はそれで終わり
その数字を次回以降のコンテンツに『前回までの評価』とするにとどまるだろう

例えば対象の人数が10,000人だった場合、1,000人の人が評価しないという事は分かっても、どういった様子・語気で評価しないとしたのかは分からない
それがデータ

ところが、今はSNSなんかが有るおかげで、その辺りも知ろうと思えば知る事ができる

従来は『何がダメだったんだろう〜?、10%かぁ〜、まぁ90%OKならOKって事で笑』みたいなまとめになってたかも知れないが、大体にしてYESの方は現状で満足しているんだから何事も起こさない可能性が有るものの、NOの場合は現状が心地悪いんだから文句は出るし、反応がキツく目立つ事が多い

上の例で行くと、9,000人は何も行動を起こさないか『良かった〜』みたいな簡単な評価だけにとどまる可能性が高いけども、評価しない1,000人は『ここがダメ』『あそこがダメ』なんなら『見たくない』みたいな乱暴な評価になる可能性もある

そうなると、そのコンテンツに無関心な大衆は、『あぁ、あれってそういう感じに評価されてるのか〜』とその目立つ評価を多数として誤解かも知れないけども認識してしまう事がある

これで困るのはコンテンツ発信側

無関心に評価するのが無関係な大衆だけなら良いんだけど、スポンサーが混じっているかも知れないって事

となると、『じゃあ“あれ”は辞めって事で』みたいな事になってしまう

よくよく考えると、その評価は従来だと耳に入らなかったり、目に留まらなかった『テレビ前での家族の雑談』かもしれないのに

それ、答えですか?

まぁこれは受取側だけの問題ではなくて、レスポンス発信側にも問題があるんだろうとは思う

従来ならテレビ前での雑談で、テレビの向こう側には届かないから無責任に色々言えた
特に悪い事はそうだ

なぜか、それを気軽に投稿してしまう人がいるという事

大体のSNSは13歳以上であればアカウントを取得する事ができると思う
これはアメリカの法律に則ったルールだ

という事は、13歳、要するに中学生ぐらいの子が、なんの気なしに投稿している可能性もある

が、見ている側は、なんとなく年齢、知識やマナーなどの社会的感覚や価値観が自分に近い者が投稿していると無意識に感じてしまう事はないだろうか?

『なんて乱暴なコメントだろう』

と思うのは自分の感覚に近いから、自分と比較をした時に自分はそんな事思わないし、例え思ったとしても書かないし、と感じるんではないだろうか?

別に、13歳の子が常識が無いと言っているわけではなくて、価値観などが自分とはずいぶん違う者が“それ”を書いていると思うと、そのコメントの評価も変わる気がする

日本語を使っているからって、ひょっとすると日本語が使いこなせる海外出身者かもしれないし、逆に戸籍は日本だけど、実は日本で生活した事がない人かも知れない

何が言いたいかというと、SNSなんかで大量に流れてくる評価を多数として、その後の舵を取るのは正解ばかりとは限らないという話

従来は入手困難だった評価が簡単に入手できるあまりそれが答えのように思いがちだけど、ほんとはもっとそこから自分たちに必要なデータに変換していく必要があってその形こそが答えなはずなんだ

色々、よくないニュースが流れて、そのポジションを退かれたり、一斉にNGを突きつけるようなアクションに偏っていったり、誰かが謝罪したりといったものを見るたびに『みんな、そんなに関心がある事なの?特に自分には悪影響は無いはずなのに?』って思う事が多いので、ちょっと吐き出してみた

それも、テレビ前での雑談だし、これもテレビ前での雑談である事は間違いないけども

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